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毘沙門天と武田信玄から学ぶ勝負運と財運をあげる方法!意外と知られていない歴史の真実とは?

マメ知識

今回は、毘沙門天とは?毘沙門天と武田信玄から学ぶものとは?などを解説していきます!

こんにちは、Otokomae Style【男前生活】のUtahです。

今回は、「毘沙門天と武田信玄から学ぶ勝負運と財運をあげる方法!」ということで、ぜひご紹介していきます!

まず、毘沙門天とは?と思った方もいると思いますので、解説していきます。

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毘沙門天とは?

仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、四天王では多聞天として表わされています。また、四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっており、様々な呼び方がある…….

などと書かれていますが、単純に言うと…

「武神として勝利の神であり、戦の神でもあるということ」「富や財などの財宝の神であるということ」の二つの面を持つ神であるということです。

ほかにも、子宝の神様でもあると伝えられています。

そして本題の、毘沙門天と意外な武田信玄との関係性ついてですが、早速お話していきたいと思います!

毘沙門天に助けられた?

毘沙門天で有名なのは上杉謙信ですが、そのライバルと言われている、山梨の甲斐の国守護大名である武田信玄が毘沙門天の加護で絶体絶命の危機を脱したことはご存じでしょうか?

永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いのとき、信玄は謙信の裏をかくべく「啄木鳥戦法」を仕掛けました。兵を二手に分けて、妻女山に布陣した上杉軍を別動隊に奇襲させて、不意をつかれて山から下りてきたところを待ち構えていた信玄の本隊が皆殺しにする作戦です。伝説の軍師・山本勘助が練り上げた計略であり、信玄は自信をもって川中島に布陣します。

ところが、朝を迎えて深い霧が晴れると、ありえないことが起きていました。いるはずのない謙信の大軍が目の前に現れたのです。裏をかかれたのは信玄でした。実は上杉軍は武田軍の動きを察知して、真夜中に秘かに山を下りて川を渡り、万全の攻撃準備を整えていたのです。さすがの信玄も冷や汗が噴き出ます。

圧倒的多数の上杉軍は怒涛の勢いで襲いかかってきました。凄まじい波状攻撃で入れ替わり立ち代わり休むことなく攻めてきます。

激戦のなか信玄の弟・信繁や山本勘助らが次々と討たれます。

そして信玄の本陣に隙が生じた瞬間、名馬に跨った謙信が太刀を振りかざして切り込んできました。

ここが、伝説の一騎討ちの場面です。

『甲陽軍艦』によれば馬上の謙信が斬りかかると、信玄は軍配で辛うじて防ぎました。信玄は死の寸前まで追い詰められていました。

ところが武田軍は幸運にも持ち返し、夕暮れ近くになって上杉軍を退かせることに成功します。

戦いの前半が謙信の勝利、後半は信玄の勝利でした。

武田信玄は生き残ります。

実はこの戦で、信玄は、兜の中に一寸四分(約4センチ)の金色の毘沙門天を入れていたと言われています。

戦場では常に毘沙門天と一緒でした。

しかし、皆さんもご存知の通り、上杉謙信も毘沙門天を篤く信仰し、春日山城内の毘沙門堂で祈りを捧げてから出陣していましたが、信玄は毘沙門天と一体だったのです。

だからこそ、毘沙門天の化身といわれた謙信でさえ信玄を斬ることができなかったのです。

川中島の戦いのあと、信玄は毘沙門天への信仰を深め、京の仏師・康清に命じて刀八毘沙門天像を彫らせ、陣中本尊として本陣に安置するようになりました。

この時を境に武田軍はますます強ったと言われています

有名な、元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは、のちに天下をとる徳川家康を赤子の手をひねるように負かしています。

現在、刀八毘沙門天は山梨県の有形文化財に指定され、甲府市の寺院でたいせつに祀られています。

ちなみに調べたところ、山梨県甲府市岩窪町500にあるそうです!

信玄を危機から救った4センチの金色の毘沙門天は江戸時代に川越藩主・柳沢吉保の手に渡り、毘沙門社を建立して祀られました。

この話から、やはり「戦いの神」「勝利の神」としての毘沙門天がどのような存在わかります。

他にも毘沙門天ってどういう存在?どんな歴史?など、気になった方は以下をご覧ください!


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